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国宝・源氏物語絵巻・竹河(たけかわ)I ・Ⅱの絵の元になる・自筆「源氏物語」竹河の原文・二人の天皇の求愛物語10-B

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商品詳細情報

管理番号 新品 :VQLG12373588593
中古 :VQLG123735885931
発売日 2025/03/02 22:17 定価 13,640円 型番 Z3632010424
メーカー 国宝・源氏物語絵巻・竹河(たけかわ)I
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「竹河の巻」原本の末尾(原本番号41-B)の印は、仙台藩第五代藩主・伊達吉村の正室・伊達貞子の押印左の写真が「源氏物語」竹河の巻の末尾(原本番号41-B)の押印。 自筆「源氏物語」の書の特徴から高松宮系統と称されるものです。2番目の写真は近衛基熙の肖像(陽明文庫・所蔵)3番目の写真は、第107代後陽成天皇の曾孫・近衛基熙の天皇家・近衛家略系図4番目の写真は、天皇家・近衛家略系図の出典(淡交テキスト「茶会記」に親しむ・7)平成29年7月淡交社・刊行大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」近衛基熙・旧所蔵(断簡)を出品(来歴)大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」は、第107代後陽成天皇の曾孫・近衛基熙の旧所蔵である。藏人少将也用美妙的子唱“瓜”之歌。とりわけ、茶室に入って行うことは、床の間の「掛け軸」(かけじく)を拝見(はいけん)することです。また、二条天皇の外戚として勢威をふるい、左大臣に昇った。《柯根(竹河)》今夜他度便随意不拘起来,也和情笑了。「落款」の漢詩の由来を待合において説明する際に、長い時間を要し、茶会における貴重な時間であったと推定されております。(Ⅰ)・上の写真右端は、高松宮「源氏物語」のうち「桐壺」の巻冒頭・(出典資料 別冊「太陽」「源氏物語絵巻五十四帖」(平凡社・刊)78頁。肉眼では見ることのできない和紙の繊維の一本一本のミクロの世界を見ることができます。基熙は、他にも朝廷・幕府の間で茶会を何度も開催した記録が残っている。近衛基熙は、「源氏物語」に造詣が深く、「源氏物語」の注釈書『一簣抄』(いっきしょう)を書いてある。大炊御門宗氏の長男・信宗の娘が大炊御門信子(のぶこ)であり、信子は後花園天皇の寵愛を受け准后として御所に居住し、皇子を生み後に第103代後土御門天皇として即位し、信子は生母・皇太后となる。実母は近衛家女房(瑤林院)。不昧公 公卿 肉筆 保障 保証 真筆 真筆 親筆 古筆 本物保証 本物保障 室町 掛軸 掛け軸 自筆 天皇 茶道具 宗鑑 良寛 伝来 歌仙 極め 極札 極め札 鑑定。寛文5年(1665年)6月、18歳で内大臣に任じられ、寛文11年(1671年)には右大臣、さらに延宝5年(1677年)に左大臣へ進み、長い時を経て元禄3年(1690年)1月に関白に昇進した。現代語訳の出典・「源氏物語」小学館刊・阿部秋生・東大名誉教授(1999年没)備考・出品した自筆は、大炊御門宗氏・自筆で近衛基熙の旧・所蔵になるものです。備前権守、参議、権中納言、権大納言などを歴任し、応永27年(1420年)に内大臣に昇任した。二人の皇女・熙子(ひろこ)は、甲府藩主・徳川綱豊と結婚。つまり、原文の内容に関する漢詩の落款を押捺しているのは、茶会における床の間の「掛け軸」(かけじく)を拝見(はいけん)の際に、茶会を主催する亭主が、客に「最高のごちそう」を振る舞うために披露したものです。この漢詩は「白楽天」に由来するものです。しかし、髭黒大政大臣という夫のなきあと、玉鬘は朱雀天皇の皇后で明石中宮の権力に圧倒されていた。紫式部が「竹河」を書くに際し、「白楽天」の漢詩を読み理解し共鳴していることがよくわかる。中央の写真は、応永五年(1398)の年号。「竹河の巻」は、薫の君、14歳から23歳までの恋物語。(八の宮の姫君とは別)二人の姫君には冷泉院(前冷泉天皇)、今上天皇、そして蔵人少将(夕霧の子息)というきらびやかな求婚者がいる。篆書体の左の二つの印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)と娘・玉映の落款写真右上の2つの印は仙台藩医・木村寿禎の落款右端の写真上は仙台藩主(伊達家)正室一覧表の表紙。詳細な理由は下記説明欄に記載(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。左大臣から関白に昇進した近衛基熙(もとひろ)公の花押。「讃」の中に有名な白楽天の漢詩を単純に落款として入れたのではなく、紫式部が原本の中に白楽天の漢詩を読み込んでいることを知ったうえで漢詩を選んでおります。綱豊は、のち第六代将軍・徳川家宣となり、熙子(ひろこ)は将軍家宣の正室となった。宗氏は、正二位・内大臣まで昇進したのち、応永28年(1421)47歳で没している。近衛基熙は、寛文5年(1665年)から晩年まで『基熈公記』で知られる日記を書いているHP近衛基熙・旧所蔵「源氏物語」自筆を出品いたしました。上下2段の花押のうち、上の印は。「源氏物語」の自筆について1・筆跡の分析について 国内における鑑定人は、自筆の筆者を識別するために、個々の文字ごとに字画線の交叉する位置や角度や位置など、組み合わせられた字画線間に見られる関係性によって、個人癖の特徴を見出して識別する方法、また個々の文字における、画線の長辺、湾曲度、直線性や断続の状態、点画の形態などに見られる筆跡の特徴によって識別する方法、そして、書の勢い、速さ、力加減、滑らかさ、などの筆勢によって識別する方法が一般的な手法です。漢詩文原文上部に「上楼空望往来船」(楼に上りて空しく望む、往来の船)という漢詩文の落款が押捺されている。《自筆上部の原本自筆上部に「上楼空望往来船」(楼に上りて空しく望む、往来の船)漢詩文の落款が押捺されている。八の宮の姫君・中の君はのちに、今上天皇の皇子・匂宮の妻となる。近衛基熙が所蔵する自筆・「源氏物語」の中で、最も美しく繊細な筆致で記された平安時代の文字に最も近いとされております。額縁は新品です。写真一番左下の角印が仙台藩の家紋印(竹に雀)家紋印の上の2つの印は仙台藩第五代藩主・伊達吉村の正室(冬姫)。薰君和藏人少将互相,也不肯触手。(2)・自筆の「英訳文」は次の通りです。ここには、おせっかいな分別心があって出過ぎたことをする人も居合せないので、しぜんとお互い興にまかせて演奏していらっしゃる。《「源氏物語」竹河(たけかわ)の巻》《太政大臣の正室・玉鬘の姫君(大君・中の君)への冷泉院(前冷泉天皇)と今上天皇の求愛物語・自筆「源氏物語」「竹河」の原文》<BR>《髭黒大将と玉鬘の姫君の間の御子(大君・中の君)たち》《玉鬘の姫君の娘(大君)、冷泉院、今上帝から求婚される》 《正月下旬、薫の君、玉鬘邸を訪問し源少将(夕霧の子息)と宴を催す》《御簾の中から蔵人少将(夕霧と雲井雁の子息)と侍従の君(薫の君)の目の前に和琴をさし出した。貴族から始まり藩主、あるいは高名な茶人や僧侶が書かれて、それが茶会の「掛軸」に装丁されて披露されておりました。 特に出雲・松江藩などの茶道の盛んな大名家の所蔵する自筆などに「讃」が付され、後に自筆に代わり、石刻による「漢詩」の篆書が「讃」として用いられました。また、落款から、後年、近衛基熙(1648~1722)の所蔵となり、時代が下って、松平不昧公の手にわたり、正室・方子の所蔵となったものである。正式な名は伊達貞子。3・自筆「源氏物語」の旧・所蔵者の特定の経緯について近衛基熙の旧・所蔵の特定は、「花押」の写真照合技術によるものです。薫の君、蔵人少将と玉鬘(たまかずら)の二人の姫君のきらびやかな恋物語が描かれている自筆下部の印は出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)」と娘・幾千姫(玉映)の落款(印譜)原本自筆上部に「上楼空望往来船」(楼に上りて空しく望む、往来の船)玉鬘には美しい二人の姫君(大君・中の君)がいる。近衛家で永く保存されておりましたので、保存状態は極めて良好です。》・・・・・・今宵は、やはり鶯にも誘われたおつもりでごゆるりとどうぞ」と仰せ出されたので、侍従の君(薫の君)は、はにかんで爪をんでいるといった場合でもあるまいと思って、あまり気を入れてといったふうでもなく一わたりお弾きになる音色が、じつに響きも豊かに聞える。(2)・自筆の「原文の現代語訳文」は次の通りです。 出品した「源氏物語」は竹河(たけかわ)の内容の要旨「竹河」(たけかわ)の巻は、『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。我真心希望听一下。晩餐会では、「ワインを楽しむために行われる」ところも似ています。応永5年(1398年)に従三位となり公卿に列する。近衛基熙は、千利休の孫・千宗旦との茶会の交流(下記に掲示)で知られると同時に、第111代・後西院天皇や後水尾天皇を主賓に迎え茶会を開催。出品している書の「断層(MRI)写真」の原板は、レントゲン写真と同じ新聞の半分ほどの大きさのフィルムです。薫の君15歳の正月下旬、髭黒大政大臣の正室であった玉鬘(たまかずら)の姫君の邸に薫の君や蔵人少将(夕霧の子息)が集い催馬楽の「竹河」を謡い興じていた。数ある自筆「源氏物語」の中で、第一級品と称される貴重な自筆です。 大炊御門家は、平安時代末期摂政関白藤原師実の子経実・治暦4年(1068)~天承元年(1131)を祖として創立された。 落款の「讃」の元になるその原文の個所には、「上楼空望往来船」(楼に上りて空しく望む、往来の船)という漢詩文の落款が押捺されている。したがって、出品した自筆「源氏物語」は、天皇の曽祖父の貴重な自筆です。その席で玉鬘(たまかずら)の姫君は薫の君が弾く和琴の音色がなき弟の柏木の音色に似ていることに気づく。つね(常)にみ(見)奉りむつひさりしおや(親)なれと、世におはせすなりにきと思ふに、いとこゝろ(心)ほそ(細)きに、はかなきこと(事)のつゐてにも、おも(思)ひ出て奉るに、いとなん哀(あはれ)なる。上の篆書体は、「上楼空望往来船」(楼に上りて空しく望む、往来の船)の押印。)「自筆原本」自筆右下の上の印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室・方子と娘・幾千姫(玉映)の落款。冬姫は通称。茶会の際に落款に記された由来を知った客が広くそのことを社会に広めたために結果的に、多くの茶会に開催される「最高のごちそう」として原文に関係する漢詩の落款を付したものです。この原詩の言葉の引用は、「竹河の巻」に用いられていることで広く知られている。以後、摂関家の当主として累進し、翌年明暦元年(1655年)従三位に上り公卿に列せられる。蔵人少将(夕霧の子息)はその姿を見て二人の姫君のうち姉の大君への思いを募らせていく。出品以外の所蔵品を紹介した出品者のホームページ「源氏物語の世界」をご覧ください。「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複数の年号の記載があることから、少なくとも応永五年から8年間にわたり書かれていることがわかる。(玉葛)「大(おほ)かた此君は、あやしう故大納言の御ありさまに、いとようおほえ、こと(琴)のねなと、たゝそれとこそおほえつれ」とてな(泣)き給ふも、ふる(古)めい給ふしるしの、なみた(涙)もろさにや。この場合、落札後に正確な中国語の文字を記載した中国語訳文を交付いたします。2・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)の自筆の特定について自筆の筆者は、書体、書風から京都の公卿によって書かれたものであるはわかっていたが、昭和38年以来、筆者名は特定されていなかった。初代、経実の子経宗は平治の乱で平清盛方の勝利に貢献。この漢詩は「白楽天」中の有名な一節です。少将(夕霧の子息)もじつに美しい声で、・・・・・・《「さき草」を謡う。出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜)、下の印は仙台藩医・木村寿禎の落款(印譜)「自筆の画像断層(MRI)写真」(出品した自筆の「断層画像写真」(竹河の巻)MRI 44―10B自筆二つの印のうち上は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)」、上は娘の幾千姫(玉映)の落款。「源氏物語・国宝」「竹河の巻」主人公の資料下記写真は、「国宝・竹河・源氏物語絵巻」の中に描かれる玉鬘の姫君(大君・中の君)「源氏物語絵巻 」竹河(国宝)玉鬘の姫君(大君・中の君)の侍女右下は、玉鬘の姫君(大君・中の君)と御簾の外からかいま見る夕霧の子息・蔵人少将。承応3年(1654年)12月に元服して正五位下に叙せられ、左近衛権少将となる。出品した大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」は、近衛基熙が研究のために収集し、のちに近衛家から出雲松江藩主・松平治郷(不昧公)の正室・方子(よりこ)に伝わり、方子の生家である仙台藩から同藩の藩医・木村寿禎に伝来していたものである。漢詩文の落款が押捺されている。3月の桜の花盛りの夕暮れ時、玉鬘(たまかずら)の二人の姫君が御簾をあげ、桜の木を賭け碁を打っていた。日本国内では医療用以外には見ることのできない書の「断層(MRI)写真」です。「天皇の曽祖父・大炊御門宗氏の系図」「額縁裏面表記ラベル」「近衛基熙の肖像」「後西院天皇主賓の茶会の記録」1番上の写真は、第103代後土御門天皇と曽祖父・大炊御門宗氏の系図(公家事典303頁)2番目の写真は「額縁裏面」に表記されるラベル。数値解析は、文字の筆順に従いX、Y座標を読み、そのX、Y座標をコンピューターへ入力後、コンピューターによって多変量解析を行うものです。このため後醍醐天皇の宸翰(しんかん・天皇自筆)にかなり近い年代に書かれていることがわかる。その席で玉鬘(たまかずら)の姫君は薫の君が弾く和琴の音色がなき弟の柏木の音色に似ていることに気づく。薫の君15歳の正月下旬、髭黒大政大臣の正室であった玉鬘(たまかずら)の姫君の邸に薫の君や蔵人少将(夕霧の子息)が集い催馬楽の「竹河」を謡い興じていた。表紙の下は一覧の拡大写真(仙台市立博物館・刊行)(奥書は、令和2年11月29日に蔵の中の桐箱から発見されたものです。本物を見分けるための欧米の進んだ分析・解析技術を見ることができます。紫式部がこの原詩に親しんでいたと推定されている。解析の基準となるのが「ドーバート基準」で、アメリカでは日本国内の画像データを自動的に収集、自筆の分析に際し、数値データをコンピューターで自動的に解析し「極似」した画像データによって筆者を識別する研究が進んでおります。紫式部が「竹河」を書くに際し、「白氏文集」の漢詩を熟読したうえで「源氏物語」の「竹河の巻」を書いていることがわかります。明石中宮という圧倒的な権力者の前に自分の立場が風前の灯であることを悟る。源氏然是玉鬘尚侍的父,但生前和不常面,况且在早已不在人世,故玉鬘尚侍想起了他,不孺慕。玉鬘尚侍从内叫人送出一和琴来。額縁の大きさは タテ37.0センチ ヨコ28.0センチです。》追記・玉鬘の姫君(大君)に対し、冷泉院(前冷泉天皇)と今上天皇の二人から、入内の要請が来ており、玉鬘の姫君が迷っている場面を記しております。》自筆下部の印は出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜)自筆が「古切」とされたのは江戸時代。「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複数の年号の記載があることから、大炊御門宗氏が23歳から31歳までの間に書かれたものと推定されている。:“大体看来,薰君的相貌非常肖似已故的柏木大言。筆者は近衛関白政家公。《「源氏物語」竹河(たけかわ)の巻》こよひ(今宵)は、なほ鴬(うくひす)にもさそはれ給へ」とのたま(宣)ひ出たしたれは、あまへてつめ(爪)くふへきこと(事)にもあらぬを、と思ひて、おさおさ心にも入らす、かきわたし給へるけしき、いとひゝきおほ(多)く聞こゆ。茶会の際、基熙が所蔵する藤原定家・自筆の「定家色紙」を持参した記録がある。自筆の希少価値について自筆の稀少価値は、和紙の生成技法の緻密さにあります。”就哭起来。桐壺天皇の皇子で朱雀天皇の皇太子・八の宮の姫君(大君・中の君)とは別人。》「額縁入自筆原本」(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。”薰君心念此怕羞退,甚不相宜,便勉勉地奏一曲,琴声甚美妙。尚侍(玉鬘)は、(玉鬘)「しじゅうお目にかかってなれ親しむことのなかった親なのですが、もうこの世にいらっしゃらないのだと思うと、まことに心細いので、ふとした事のついでにお思い出し申すにつけても、ほんとに身にしみて悲しい気持になります。断層(MRI)写真従来、日本の古美術の鑑定の際の分析・解析は、エックス線写真、赤外写真、顕微鏡が中心です。4・近衛基熙(このえもとひろ)について近衛基熙は、慶安元年(1648年)3月6日、近衛尚嗣(関白・左大臣)の長男として誕生。 「茶事」は、「ヨーロッパの晩餐会(ばんさんかい)」とも言われます。いったい、このお方(薫の君)は不思議なほど故大納言(柏木)のご様子にじつによくお似ましで、琴の音などは、まったくあのお方としか思われません」と言って尚侍(玉鬘)がお泣きになるのも、年をおとりになった証拠の涙もろさというものであろうか。自筆右下の下の印は、仙台藩第五代藩主・伊達吉村の正室・伊達貞子の押印《自筆上部の原本自筆上部に「上楼空望往来船」(楼に上りて空しく望む、往来の船)という漢詩文の落款が押捺されている。また、各巻ごとの書かれた年については不明。従って、応永五年とは、書き始めの年である。 関白・近衛基熙(このえ もとひろ)は、後水尾院(第108代後水尾天皇)の皇女・常子内親王と結婚。茶道では「掛け軸は最高のごちそう」といわれております。古切に至る詳細な経緯は下記「希少価値欄」に記載(1)・自筆の「原文の読み下し文」は次の通りです。一方、欧米では一般的には、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析をコンピューターの数値によって解析しております。年号の左の印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜)。尚侍命侍女侍从君向薰君言:“我早就知:的爪音酷似已故的父大人。現在の今上天皇と系譜がつながっている。とりわけ、漢詩の落款は、ただ、古典の漢詩を入れればいいという単純なものではなく、たとえば、「源氏物語」の場合、原本の中に込められている紫式部が考えた知識を読み解くことにあります。中国訳文の出典:『源氏物語(Yunsh wy)』豊子愷(ほうしがい)中国最初の「源氏物語」翻訳者(文化大革命で没)注記・中国語の文字の一部がシステムの関係で反映されない場合があります。左の写真は、桐壺の巻の奥付。京都の公卿・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)自筆「源氏物語」近衛基熙・旧所蔵自筆「源氏物語」の「竹河(たけかわ)」の巻は、禁裏(京都御所)において書かれたものです。近来容易流泪,恐是年事老之相。大炊御門北に邸宅があったため「大炊御門(おおいみかど)」を称する。听他的琴声,竟活像是大言出的。一方、アメリカやイギリスでは研究が進み和紙の組成状況を精確に分析・解析をするために断層(MRI)写真が利用されており、今回の出品に際し、「断層(MRI)写真」を資料として出しました。》《原本中の凹凸はストロボの影響によるものです。掛軸や屏風にすることが可能なように、「Removable Paste(再剥離用糊)」を使用しているため、自筆の書に影響をあたえずに、容易に「剥離」することができるような特殊な表装となっております。源氏物語「竹河」原本に記されております。漢詩の落款の意味原本上部の漢詩の落款は、「讃」と称されるもので、古来、掛軸の書画に第三者がお褒めの言葉を書き込むもので元々は自筆でした。自筆「源氏物語」の筆者である「大炊御門宗氏(おおいのみかどむねうじ)」は、室町時代の第103代天皇である後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の曽祖父です。今宵声引琴声,就一曲。 旧・所蔵者の近衛基煕は、「源氏物語」に造詣が深く、「源氏物語」の注釈書『一簣抄』(いっきしょう)を著(あらわ)しております。この漢詩は「白楽天」中の有名な一節です。(資料の記録は下記に掲示) 出品した「源氏物語」は、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」の自筆です。少将も、こゑ(声)いとおもしろう(文責・出品者)「原文の読み下し文」は、読みやすいように「通行訳」としております。今上天皇の正室(皇后)は明石中宮で匂宮の母君。その後、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析と並行し、奥書の「宗」の字の下の文字が判読できずにいた。備考・玉鬘の二人の姫君のうち大君(姉君)は冷泉院(前冷泉天皇)の妻となり、中の君(妹君)は今上天皇の妻となる。出品した「源氏物語」の筆者・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)は、大炊御門家13代の当主で南北朝時代から室町時代前期の公卿。それが、技術の進歩により「宗」の下の文字が「氏」と判読された結果、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」であることが判明した。冬姫は内大臣・通誠の養女。母は後水尾天皇皇女女二宮。撮影後、展示のために再表装をしております。)自筆の疎明資料等は、下記の通りです。寸法「源氏物語」自筆の大きさ タテ21.8センチ ヨコ12.8センチ。上の「拡大断層(MRI)写真」でわかる通り、極めて薄い和紙の上に墨の文字がくっきりと浮き上がるように「源氏物語」の文字が記されております。平日逢小事故,往往睹物人,何况今天听到薰君的琴声,自然更加感。)大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」近衛基熙・旧蔵の来歴については下記「説明欄」に記載《「源氏物語」竹河(たけかわ)の巻》「竹河」の巻は英文で「The Eastern Cottage」と表記されます。《Bamboo River (竹河)》The warbler has favored us this evening. Can you not be persuaded to do as well?" He would look rather silly biting his finger like a bashful stripling. Though without enthusiasm, he played a short strain on the koto, from which he coaxed an admirably rich tone. Tamakazura had not been close to her father, Tono Chujo, but she missed him, and trivial little incidents were always reminding her of him. And how very much Kaoru did remind her of her late brother Kashiwagi. She could almost have sworn that it was his koto she was listening to. She was in tears - perhaps they come more easily as one grows older. The lieutenant continued the concert with "This House." 英語訳文(英文)の出典:『The Tale of Genji』Edward George Seidensticker(エドワード・ジョージ・サイデンステッカー)コロンビア大学教授(2007年没)(2)・自筆の「中国語訳」は次の通りです。薫の君、14歳から23歳までの恋物語。幼名は多治丸。蔵人少将(夕霧と雲井雁の子息)と侍従の君(薫の君)の二人がお互いに譲り合って、手を触れようともしないので、藤侍従の君(玉鬘の三男)を取次にして、尚侍の殿(玉鬘)が、(玉鬘)「侍従の君(薫の君)のは故致仕の大臣(昔の頭中将・薫の君と蔵人少将の祖父)との御爪音に似かよっていらっしゃるとかねがねうかがっておりますので、本当にお聞かせいただきとうございます。左端の写真は「竹河の巻」末尾の拡大写真。炊御門宗氏・自筆「源氏物語」は、近衛基熙が研究のために収集し、のちに出雲松平家に伝わり、松平治郷の正室・方子が鑑賞していたものです。明暦2年(1656年)に権中納言、万治元年(1658年)に権大納言となり、寛文4年(1664年)11月23日には後水尾上皇の皇女常子内親王を正室に賜った。ツイッター「源氏物語の世界」も合わせてご覧ください。古切の書は、一旦表装を剥離し分析と鑑定検査のために「断層(MRI)写真撮影」をしております。この漢詩は「白氏文集」に由来するものです。父、尚嗣が早世し、尚嗣と正室女二宮の間には男子がなかったため、後水尾上皇の命により、近衛家の外にあった基熙が迎えられて上皇の保護下で育てられた。アメリカのコンピューターを用い、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析を、花押の照合に応用し、指紋の照合方法と同じ手法により99.9パーセントの確率で特定に至ったものです

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